青木宣親選手の野球経歴をご紹介【出身・年俸・メジャーでの成績など】

選手紹介

現在、ヤクルトスワローズで活躍中の青木宣親選手の野球経歴をご紹介します。

青木選手は東京ヤクルトスワローズ所属の右投げ左打ち、ポジションは外野手(レフト)を守っています。

プロ野球ファンであれば青木選手を知らない方はおそらくいないくらい非常に有名な選手です。

知名度のみならず、持ち前の俊足巧打で充分すぎる実績も残している青木選手。今なお現役でプレーしており、チームのために素晴らしい活躍をしています。

NPBで唯一2度のシーズン200本安打を記録。メジャーリーグにも挑戦し、数々の球団を渡り歩いた実績を持つ経験豊富な選手です。

青木選手に憧れてプロ野球選手になったと答える現役選手も数多くいることから、青木選手の偉大さが伺えますね!

・青木選手ってどんな選手?

・青木選手のファンで詳しく知りたい!

・年俸、成績はどんな感じなの?

そんな読者の皆さんの一助になるべく、青木選手についてまとめましたので参考にしていただければ幸いです。

青木宣親選手の野球経歴

青木選手の誕生〜プロ入りまでの野球経歴をご紹介します。

青木選手の幼少期から学生時代までの経歴をわかりやすくまとめたものとなっています。

それでは今なお活躍中のレジェンド、青木選手の野球経歴を一緒に見ていきましょう!

誕生

1982年1月5日、青木選手は宮城県日向市で生まれました。

3兄弟の末っ子で物心ついた時から野球ボールで遊んでいたそうです。

小・中学校時代

日向市立日知屋小学校に入学した後、小学1年生でスポーツ少年団に加入し野球を始めた青木選手。

小学6年生時にはピッチャーとしてチームを県大会優勝に導くなど、この頃から抜群の野球センスを発揮していたようです。

小学校卒業後は、地元の日向市立富島中学校に進学。

当時、富島中学校の野球部は強豪校とはいえず、そこまで強くないチームだったため県大会上位進出は果たせなかったとのこと。

高校時代

宮城県立日向高等学校に入学した青木選手。

2年生の時には同校のエースとして活躍しました。

3年生最後の大会となる甲子園出場をかけた夏の県予選では、準々決勝で敗北。

県内では注目投手として名を馳せていた青木選手ですが、甲子園出場を果たすことが出来ませんでした。

しかし、入学途中から同時に力を入れていた勉強が功を奏し大学に進学することになります。

しっかりと「文武両道」を遂行した青木選手、あっぱれです!

大学時代

早稲田大学人間科学部スポーツ科学科(現:スポーツ科学部)に指定校推薦で進学。当時の青木選手はとにかく勉強するしかなかったと述べています。

高校時代に肩を故障していた影響もあり、大学で野手に転向することに。

大学同期には、鳥谷敬選手・比嘉寿光選手・由田慎太郎選手らが在籍。

また1学年上には和田毅選手、1学年下には田中将康選手、2学年下には武内晋一選手・越智大祐選手と、のちにプロ野球選手となる7名の選手と同大学で切磋琢磨することになります。

打順は主に2番を任され、チームのチャンスメーカーとして活躍しました。

2002年に3年生となった青木選手は、東京六大学秋季リーグ戦で打率.436と脅威の打率を残し首位打者のタイトルを獲得。

また、同リーグでベストナインに3回選ばれるなど、リーグ戦4連覇中の早稲田大学野球部を牽引していた選手と言っても過言ではない実績を残しました。

大学での通算成績は58試合出場、190打数63安打、打率.332、0本塁打、20打点と、六大学を代表するアベレージヒッターとして変貌を遂げます。

プロ入り

2003年11月に行われたドラフト会議で東京ヤクルトスワローズから4位指名を受けた青木選手。

大学時代に同期の鳥谷選手を視察に来たヤクルトスワローズのスカウト陣が、「足の速いセンター」であった青木選手を目に止めたことがきっかけとなり、スカウト指名にいたったとのことです。

プロ野球での経歴(MLB移籍前)

青木選手のプロ野球経歴(MLB移籍前)をご紹介します。

背番号『23』をチームから与えられた青木選手はプロ入り後も目まぐるしい活躍を魅せることとなります。

入団当初からMLB移籍までの活躍をまとめましたので、ぜひご覧ください。

2004年

入団後の2004年シーズンは1軍出場は10試合に終わったものの、2軍では打率.372と好成績を残し、首位打者と最高出塁率を獲得。また、21盗塁とリーグ2位の記録も残しました。

2005年

プロ入り2年目となる2005年シーズン、当時主力選手として大活躍していた稲葉篤紀選手の移籍をきっかけに青木選手がレギュラーの座を掴みとります。

スタメン出場を果たすやいなや、同シーズンにあのイチロー選手以来史上2人目となるシーズン200本安打を達成するなど、凄まじい活躍をみせます。

また、新人王・セリーグ首位打者にも選出されるなど飛躍の年となりました。

2006年

迎えた2006年、シーズン開幕前に開催された第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の日本代表選出された青木選手、ついに日の丸を背負いプレーすることとなります。

この年のWBC日本代表は監督の王貞治氏を初め、イチロー選手・松阪選手など日本球界を代表する名高い選手が選出される、まさに伝説の布陣でした。

そんな中でも青木選手は6試合に出場し、臆することなくチームに貢献。チームは一致団結・各選手が存分に実力を発揮した結果、日本代表は優勝という輝かしい功績を手に入れました。

WBC後の2006年シーズンも青木選手の快進撃は続きます。

シーズン最終成績は打率.321・両リーグトップとなるシーズン192安打を達成し2年連続の最多安打を達成。

また、6年連続で盗塁王のタイトルを獲得していた赤星憲広選手(当時:阪神タイガース)を抑え、41盗塁をマークし盗塁王のタイトルも獲得するなど素晴らしい活躍を見せました。

2007年

2007年シーズンも数々の記録を樹立した青木選手。

この年は、今まで固定されていた1番打者での出場だけでなく、2番・3番などの上位打順でも活躍しました。

7月10日には、出場373試合目でNPB史上最速となる500本安打を達成。

シーズン打率.346を記録し2度目の首位打者・自信初となる最高出塁率のタイトルを獲得。

また3年連続100得点以上となる114得点をマークしリーグ最多得点を記録。

本塁打も20本の大台に乗せ、長打率で初めて5割を超える記録を残します。

2008年

シーズン序盤に脇腹を痛めて、自身初の怪我による登録抹消を経験。

しかし、復帰してからは着実に安打を積み重ね、例年以上の高打率をマークします。

シーズン途中の8月には北京オリンピックの日本代表に選出され、WBCに続き2度目の日の丸を背負うことに。

2008年シーズンでは主に3番打者として起用されていたこともあり、得点圏打率が前年よりも下がり、首位打者・最高出塁率のタイトル争いを繰り広げていた内川聖一選手(当時:横浜ベイスターズ)に譲ったものの、自己最高の打率.347・走っては31盗塁を記録する活躍をみせました。

2009年

シーズン開幕前に開催された第2回WBCの日本代表に自信2度目となる選出を果たします。

この年のWBCは野球ファンにとって伝説の大会!

決勝の宿敵韓国戦はリアルタイムで試合を観ていた視聴者も選手と同じように緊張し、日本の勝利を切に願っていたことでしょう!

僕もハラハラしながら視聴していたのを覚えています。

そんな第2回WBCで青木選手は3番・レフトで全試合に出場し、37打数12安打・打率.324・7打点の素晴らしい成績を残し大会ベストナインに選出されました。

シーズンでは、前年オフからWBCの調整のために休むことなくトレーニングを続けた結果、体を痛めてしまったことが悪影響となり不振に陥ってしまった青木選手。

前半戦は打率.249と低迷。しかし、後半戦からバットを変えるなどの試行錯誤を繰り返した結果、打率4割台の好成績をマークし復活を遂げました。

シーズン終盤には4番を務めるなど、持ち前の勝負強さを発揮しチームのクライマックスシリーズ出場に貢献しました。

この年の最終成績は、打率は.303と5年連続で3割台をキープ・出塁率.400で自身2度目となる最高出塁率のタイトルを獲得します。

シーズン終了後には大竹佐知さん(当時:テレビ東京アナウンサー)と結婚。

また、球団より背番号「1」への変更を打診され続けていた青木選手。

ヤクルトスワローズの背番号1番は『ミスタースワローズ』の称号とワンセットとされており、若松勉選手を始め、池山隆寛選手・岩村明憲選手といったヤクルトスワローズを代表するスター選手が背負ってきた名誉ある背番号。

青木選手は時期尚早と断り続けてきましたが、「若松さんのように人望の厚い、たくさんの人から愛される選手になりたい」と決意を示し、2010年から背番号「1」を背負うこととなります。

2010年

『ミスタースワローズ』の称号を得た青木選手は開幕から3番打者としてスタメン起用。

開幕直後は打撃好調でしたが、4月半ばからは不振気味に。

チームも最下位に沈み5月末には借金が膨れ上がり、当時の指揮官・高田繁監督が休養を発表。

それにともない、小川淳司監督代行が就任となり1番打者に固定された青木選手は調子を上げ、安打を量産することとなります。

7月4日の対中日ドラゴンズ戦では、セ・リーグ史上最速となる770試合出場で通算1000安打を達成。

9月には出場した全試合で安打を放ち月間打率.420を記録し月間MVPを受賞。

同月26日の対中日ドラゴンズ戦で、NPB史上初となる2度目のシーズン200安打を達成するなど輝かしい活躍をみせます。

2010年シーズンは自己最高の打率.358を記録し、自身三度目となる首位打者を獲得すると同時に、若松勉氏が持つシーズン打率.358の球団記録を更新。

成績でもミスタースワローズを伝承した形となりました!

2011年

2011年シーズンは全試合に出場します。

この年より導入された統一球の影響もあり不調が続いた青木選手。

最終的には、安打数でセリーグ2位の170本を記録するも打率は.292と、6年連続で達成していたシーズン打率3割の記録が途切れた形となりました。

シーズン終了後の10月には第1子である長女が誕生し、1児の父となった青木選手。

11月にはポスティングシステムを行使してのメジャーリーグへの挑戦を表明。

12月に250万ドルでミルウォーキー・ブルワーズが青木選手との交渉権を獲得しました。

MLB(メジャーリーグ)での経歴

画像引用:https://www.mlbdailydish.com/2014/11/2/7146387/white-sox-trade-rumors-nori-aoki-could-draw-a-lot-of-interest-from-sox

メジャーリーグへの挑戦を表明した青木選手。

NPBでは凄まじい実績を残し、次はアメリカの舞台で躍動することになります。

それではMLB移籍後の青木選手の経歴をみていきましょう。

2012年〜2013年(ミルウォーキー・ブルワーズ時代)

2012年

2012年1月に総額250万ドル・2年契約・背番号「7」で交渉成立。ミルウォーキー・ブルワーズへの入団が決まった青木選手。

4月のセントルイス・カージナルス戦で、5回に代打で出場しメジャーデビューを果たします。

同月20日のコロラド・ロッキーズ戦ではメジャー初本塁打を放つなど上々な活躍を披露。なんとその本塁打は自身プロ入り後初となるランニング本塁打となりました!

5月から先発起用での出場機会が増え、同月下旬からはスタメンに定着。

6月のシカゴ・カブス戦では日本人初となる、サヨナラ本塁打を含む1試合2本塁打を記録しました。

前半戦では、77試合の出場で打率.301、5本塁打、11盗塁の好成績を残していた青木選手。

しかし、その後の後半戦当初は無安打が続き打率が落ち込むも、20試合連続出塁をマークするなど出塁率.342の好記録でチームに貢献しました。

8月以降は打撃の調子を取り戻し、9月のシンシナティ・レッズ戦では3回に10号同点ソロ本塁打、7回に2塁打、8回にも2塁打とメジャー移籍後初の1試合で3本の長打を放つ大活躍!

福留孝介選手や井口資仁選手に続く日本人のMLBルーキー史上3人目となる、2桁本塁打・2桁盗塁、通称「ダブル・ダブル」を達成します。

10月のサンディエゴ・パドレス戦で日本人ルーキーではイチロー選手以来となる30盗塁に到達。

最終的には日本人選手史上8人目の規定打席に到達し、シーズン通算打率.288、ナ・リーグのルーキー中では

  • 4位の出塁率.355
  • 7位タイの10本塁打
  • 1位の30盗塁

など素晴らしい記録を残したルーキーイヤーとなりました。

2013年

開幕から1番・ライトでスタメン起用の座を勝ち取った青木選手。

4月1日のコロラド・ロッキーズ戦では日本人史上4人目となる、開幕戦での本塁打を記録します。

6月5日のオークランド・アスレチックス戦で日・米通算1500安打に到達。

また、6月19日には長男が誕生し2児の父となった青木選手。

この年はシーズン通算155試合の出場で打率.286・8本塁打・出塁率.356・20盗塁の成績を残しました。

また、球団タイ記録となる72打席連続無三振を記録するなど、三振率5.9パーセントという驚異の選球眼を披露!メジャー両リーグで最も少ない三振数を記録しました。

いぶし銀の活躍をみせた青木選手ですが、2013年12月にトレードの対象選手となり、翌年からカンザスシティ•ロイヤルズへの移籍が決定しました。

2014年(カンザスシティ・ロイヤルズ時代)

カンザスシティ・ロイヤルズではヤクルト入団時と同じ背番号「23」を付与されることになります。

開幕から1番・ライトとしてスタメン起用され、チームに期待されていた青木選手。

しかし、6月17日のデトロイト・タイガース戦で左脚を痛め途中交代となります。

同月21日に軽度の肉離れと診断され、メジャー移籍後初の故障者リスト入り。

その後、ケガから復帰して迎えた7月24日のクリーブランド・インディアンス戦ではプロ入り後初となる指名打者で試合に出場し、延長14回にサヨナラ安打を放つ幸先の良いスタートを切りました。

8月5日のアリゾナ・ダイヤモンドバックス戦ではロイヤルズ移籍後初の本塁打となる満塁本塁打を放ちます。

9月15日から始まったホワイトソックスとの3連戦では、1戦目に4安打・2戦目に4安打・さらに3戦目に3安打を放ち、3連戦での球団安打記録を更新!

9月は月間打率.379と絶好調でしたが、シーズン成績では6月のケガの影響もあり、打撃面ではMLB移籍後最低の成績・盗塁数も最低の17に留まりました。

シーズン終了後にFAとなり、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約を結びます。

2015年(サンフランシスコ・ジャイアンツ時代)

サンフランシスコ・ジャイアンツ移籍後の背番号は、ロイヤルズ在籍時と同じ「23」。

開幕戦から1番レフトとしてスタメン起用され、開幕から9試合連続安打を記録するなど好調ぶりを披露。

オールスターファン投票の中間発表でも外野手部門4位に位置づけるなど波に乗っていた青木選手ですが、6月20日のロサンゼルス・ドジャース戦で右足に死球を受け右足腓骨を骨折、翌日に故障者リスト入りとなってしまいました。

7月21日にジャイアンツ3A傘下チームのサクラメントでリハビリ登録となり、治癒した後にメジャー復帰を果たします。

しかし、8月9日のカブス戦で頭部にまたもや死球を受け途中交代。

同月12日のアストロズ戦で復帰出場したものの、ゲーム途中にめまいを発症し途中交代となってしまいます。

8月20日に復帰を果たすも、5試合連続で三振を喫するなど調子を落としてしまった青木選手。

その後も試合に出場し続けましたが、打率は頭部死球前の.302から.287にまで落ち込みます。

9月5日の練習前に脳震盪のような症状を発症したため、再度スタメンを外れることに。

数週間のリハビリが必要と診断され休養を余儀なくされた青木選手。

シーズン中の復帰を目指しましたが、そのままシーズンを終えることとなります。

MLB挑戦後初めて規定打席に到達出来ず、死球によるケガに苦しんだシーズンとなりました。

11月、球団が契約オプションを行使せずFAとなりました。

2016年(シアトル・マリナーズ時代)

2015年12月3日にシアトル・マリナーズと1年契約を結んだ青木選手。

背番号は「8」。同チームで岩隈久志選手とチームメイトとなり、共にプレーすることとなります。

2016年はシーズン開幕から不振に陥り、4月の月間打率.205と出遅れた青木選手。

5月は打率.284と復調の兆しをみせるも、6月に再び不調となり、同月24日に傘下3Aチームのタコマ・レイニアーズに降格となってしまいます。

降格までの成績はMLB移籍後ワーストとなる打率.247。

これまで得意としていた対左投手との対戦成績が打率.177と苦しんだことも降格の理由の一つとして、スコット・サーバイス氏(当時:マリナーズ監督)は指摘していました。

7月21日に再昇格を果たすと、メジャー復帰後は主に相手チームの先発投手が右投手の時にスタメンで起用され、打率.316と好調だった。

しかし、対戦相手の左投げ投手起用が集中すると想定される試合前に再度3Aに降格となります。

9月6日にメジャー再昇格すると、20試合の出場で打率.379、3本塁打を放つなど好成績を記録。

しかし、最終的な成績は規定打席には届かず、MLBで5年間プレーし、打率、出塁率ともにキャリアワーストと精彩を欠く結果となりました。

マリナーズとの契約が切れた青木選手は、11月30日にヒューストン・アストロズと1年550万ドルで契約。

12月21日に、2017年3月に開催予定の第4回WBC日本代表に選ばれ、2大会ぶり3度目の選出を果たします。

2017年(ヒューストン・アストロズ時代)

ヒューストン・アストロズに移籍となった青木選手は、2010年まで同チームに所属した日本人プレイヤー松井稼頭央選手の背番号「3」を受け継ぐことに。

シーズン開幕前の3月に開催されたWBCに日本人メジャーリーガーで唯一参加。試合では主に3番打者を務め、最年長選出選手としてリーダーシップをいかんなく発揮しチームをけん引しました。

そして、迎えた2017年シーズン。この年は記念すべき大記録が誕生します。

6月11日、対ロサンゼルス・エンゼルス戦の第3打席、6回無死からレフト前に安打を放ち、日本人選手で史上7人目となる日・米通算2000本安打を達成!

日本プロ野球名球会入りを果たしました。

6月30日の対ヤンキース戦では自身プロ初となる投手でのメジャー初登板。9回の1イニングを投げ、3失点という結果に。

ちなみに、日本人野手の登板は2015年のイチロー選手以来の2人目の記録となりました。

シーズン途中の7月31日、青木選手は選手間トレードによってトロント・ブルージェイズに移籍することとなります。

2017年8月〜9月(トロント・ブルージェイズ時代)

トロント・ブルージェイズに移籍となった青木選手。背番号はお馴染みの「23」を背負うことになりました。

8月4日、1ヶ月前まで在籍していた古巣ヒューストン・アストロズとの試合、9回に代打で移籍後初出場。アストロズファンからスタンディングオベーションで迎えられました青木選手ですが、移籍後初安打とはいきませんでした。

翌々日の6日、アストロズ戦で8番レフトで先発出場。7回表の第3打席目で本塁打を放ち、移籍後初安打が本塁打となりました。

移籍後の成績は12試合の出場で打率.281・3本塁打・8打点と上々な成績を残したものの、他選手をメジャーに昇格させるチーム方針があったことから8月28日に戦力外通告を受けてしまいます。

2017年9月〜(ニューヨーク・メッツ時代)

2017年9月2日にニューヨーク・メッツと契約を結んだ青木選手、背番号は「11」。

移籍当日のヒューストン・アストロズ戦に1番・ライトで先発出場し、結果は5打数1安打。

メッツ移籍にともない、野茂英雄選手以来のMLBに在籍していた球団数が7となり、日本人選手最多タイの所属球団数を記録。また、MLBの両リーグ全地区に所属した初めての日本人選手となりました。

メッツでは安定した成績を残した青木選手ですが、シーズン終了後の10月30日にFAとなり退団することとなります。

プロ野球での経歴(NPB復帰後)

MLBでは7球団を渡り歩いた経験豊富な青木選手。現在もチームの主力選手として活躍しています。

ここからはMLBからNPBに復帰した青木選手の経歴を一緒にみていきましょう!

2018年

MLBで所属球団が決まらなかった青木選手ですが、日本から声がかかります。

1月29日に3年契約・総額10億円(推定)で古巣ヤクルトスワローズと契約。背番号はヤクルト入団時につけた「23」を背負って戦うことに。

2月6日に会見を行い、「この球団を愛している、優勝させることしか考えていない」と述べた青木選手。優勝請負人としての強い意気込みを感じられる一言でした。

シーズン開幕戦の対DeNA戦から4番・センターでスタメン出場、5打席目で日本復帰後初となる安打・打点を記録しました。

5月3日、対中日戦の4打席目でNPB通算打率記録の対象となる4000打数に到達した青木選手。

この時点の通算打率が.328となり、NPBの通算打率ランキングで1位を記録します。

6月14日の対西武戦では1回表に史上9人目となる先頭打者ランニング本塁打を放ち、62年ぶりに更新された最年長記録ホルダーとなった。

6月30日の対阪神戦で岩貞祐太選手(阪神タイガース)から危険球を受けて途中交代、その後脳震盪の症状が発生したため登録抹消となってしまいます。

6月の月間成績は打率.388・4本塁打・22打点を記録し、小川泰弘選手(ヤクルトスワローズ)とともに月間MVPに選出されました。

開幕当初は打順が定まらなかった青木選手ですが、シーズンが進むにつれ2番打者に定着。その後も活躍を続けた青木選手がチームを牽引、前年最下位に沈んだチームを2位へと導く大きな貢献を果たしました。

最終的なシーズン成績は打率.327、OPS.884、キャリアハイの67打点を記録し、素晴らしい結果を残しました。

2019年

開幕戦から主に2番・センターでスタメン出場。

4月6日の対中日戦では延長12回二死の場面で代打出場しサヨナラ本塁打を放ちます。代打での本塁打は自身初で、「みんなが粘って粘って同点にしてくれて、なんとか最後は自分が決めたいと思っていた」と述べました。

4月25日の対巨人戦では青木・山田・バレンティンの3選手が平成最後の3者連続本塁打を記録。

5月26日対中日戦でも同じ3人が令和初の3者連続本塁打を放つなど、上位打線の厚みを感じる記録となりました。

5月17日の対DeNA戦でNPB通算100本塁打、5月22日の対阪神戦では史上126人目のNPB通算1500安打を達成。

最終成績は134試合に出場し、チームトップの打率.297・16本塁打・58打点を記録しました。

2020年

2020年シーズンは新監督として就任した高津臣吾監督の指名でキャプテンに就任した青木選手。

シーズン開幕戦に6月19日、対中日戦に3番・レフトで出場し、4回に第1号の本塁打を放ちます。

7月11日の対巨人戦では球団通算8000号本塁打・9月20日の対広島戦では初回に濱田・青木・山田で初回先頭打者からの3者連続本塁打を記録するなど、長打力不足に陥ったチームを村上宗隆選手と共に牽引しました。

最終的なシーズン成績は3年連続チームトップの打率.317・リーグ3位の長打率・リーグ2位の出塁率とOPSを記録します。

シーズンオフに新たに3年契約で推定総額10億で契約を結びました。

2021年

2021年は当時猛威を振るっていた「コロナウイルス」の流行で、1月の自主トレ期間にコロナウイルス陽性選手との濃厚接触者となった青木選手は隔離生活を余儀なくされることに。

調整がうまく行えなかったため、復帰後は思うように体が動かせず不振におちいります。

しかし、5月26日の日本ハム戦で日本人選手史上4人目となるNPB・MLB通算2500本安打を達成をきっかけに調子を取り戻した青木選手。

交流戦では2番に戻り、上位打線の一角としてチームを引っ張ります。

その後は好不調を繰り返したため思うように打率が伸びず通算打率.319に下がり、歴代通算打率記録1位の座から陥落。

しかし、持ち前のバットコントロールでチームバッティングに徹しチャンスメイクに貢献し続けた結果、チームは2015年以来のリーグ優勝!

ヤクルト及びNPBにおけるリーグ優勝経験は自身初となりました。

CS(クライマックス)シリーズでも、素晴らしい活躍をみせた青木選手。チャンスの場面でしっかりと結果を出し、ヤクルトを日本シリーズに導きます。

迎えたオリックス・バファローズとの日本シリーズでは、第2戦にて8回表に適時打を放ちチームの勝利に貢献。ヤクルトが4勝2敗でシリーズを制し、悲願の「日本一」を掴み取りました!

年俸推移

シーズン(年)推定年俸所属チーム
2004(入団年)1000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20051000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20067000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20071億4000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20082億2000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20092億6000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20102億8000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20113億3000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20121億円ミルウォーキー・ブルワーズ(MLB)
20132億円ミルウォーキー・ブルワーズ(MLB)
20142億円カンザスシティ・ロイヤルズ(MLB)
20155億7000万円サンフランシスコ・ジャイアンツ(MLB)
20166億6000万円シアトル・マリナーズ(MLB)
20176億6000万円ヒューストン・アストロズ/トロント・ブルージェイズ/ニューヨーク・メッツ(MLB)
20183億3000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20193億3000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20203億3000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20213億3000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)
20223億3000万円東京ヤクルトスワローズ(YS)

入団2年目にレギュラーの座を掴み、シーズン200本安打を達成したこともあり、プロ野球入団3年目にはすでに億プレイヤーとなっていることがわかります。

その後も様々なタイトルの獲得・WBC選出など日本球界を代表する選手となった青木選手の年俸は右肩上がり。

MLB挑戦当初はアメリカでの実績がない分年俸のダウンが確認できますが、順応し成績を残した結果6億円以上の年俸を獲得する選手へと変貌しました。

年齢とともに年俸が下がってしまうのは仕方ないことですが、未だ億プレイヤーとして活躍している青木選手。やはり偉大な選手であることが伺える年俸推移となっています。

青木宣親選手の成績【年度別】

日本プロ野球(NPB)の成績

年度チーム打率試合打席打数安打二塁打三塁打本塁打塁打打点得点三振四球死球犠打犠飛盗塁盗塁死併殺打出塁率長打率OPS得点圏失策
2004YS.200101615300030161000100.250.200.450.0000
2005YS.3441446495882022643245281001133751812975.387.417.803.3231
2006YS.3211466805991922631326362112786884141123.396.439.836.4195
2007YS.346143652557193262202835811466808431764.434.508.942.3271
2008YS.3471125004441542951423564854742101331910.413.529.942.2771
2009YS.3031426245311612321623666876575131418109.400.444.844.3073
2010YS.3581446675832094411429763926163180319410.435.509.944.3313
2011YS.292144643583170185421044735551900836.358.360.718.3403
2018YS.327127567495162373102356785485119023413.409.475.884.3404
2019YS.297134565489145192162165884726111131213.385.442.826.3202
2020YS.3171074253571133011819951645162501216.424.557.981.3190
2021YS.25812250144611529091715657444310020010.335.383.719.2845

出典:Sportsnavi/年度別・通算の打者成績

青木選手のNPB成績をみてみると、打率・出塁率はさすがの好記録です。

2005年〜2010年にかけて、盗塁数は2桁と韋駄天「青木宣親」を象徴する成績となっています。

しかし、2011年からは1桁となっており、この頃から身体能力の低下が伺えますね。

また、相手投手はインコースの厳しいコースを責めないと青木選手を打ちとることが困難なため、四死球が多いのが特徴となっています。

メジャーリーグ(MLB)での成績

年度チーム O P S
2012MIL.28815158852015037410225815055431330.355.433.787.094
2013MIL.2861556745971712038221803740551120.356.370.726.059
2014KC.285132549491140226117763434943617.349.360.710.089
2015SF.28793392355102123513542262530614.353.380.733.064
2016SEA.28311846741711824441626328453497.349.388.738.096
2017HOU.27271224202551212752819291525.323.371.694.129
2017TOR.281123432910319485100.294.594.888.147
2017NYM.284271161022971038168101315.371.373.743.086

MPB成績は上記の通りです。

MPB移籍後の打率はすべてのシーズンで2割台と、移籍前のNPB時代の方が高い打率となっています。

青木選手の打撃センスをもってしてもやはりメジャーリーグで高い打率を記録することは困難のようです。

しかし、毎年安定した成績を残していることも事実。自身の調整方法を熟知した選手でないとなかなか残せない成績です。

青木宣親選手の応援歌と登場曲

ここでは青木選手の応援歌と登場曲を紹介します。

YouTubeの応援歌・登場曲に関する動画をピックアップしましたので、参考にしていただけたら幸いです。

応援歌

引用:へちきやま/東京ヤクルトスワローズ 青木宣親 応援歌 【新歌詞付き】

歌詞:ここで勝利を呼べ行くぞ青木宣親

皆と共に描いた未来を掴むため愛すチームで更なる伝説築け

登場曲

【GLAY】〜SOUL LOVE〜

引用:げってぃー/【2022登場曲】#23 青木宣親「SOUL LOVE」

まとめ

青木選手の野球経歴・成績や年俸などを紹介しました。

メジャーリーグでは数々の球団を渡り歩いた実績のある大ベテラン。

NPBでは東京ヤクルトスワローズを一筋、チームの日本一にも導いたレジェンド級の選手です。今なお現役でチームを牽引し、今後の活躍にファンの注目が集まっています。

応援歌の歌詞にあるように「更なる伝説築け」、これこそ真髄です!

今後も青木選手から目が離せません!

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